光デバイス/半導体レーザ
37.量子カスケードレーザ
いろいろな波長の半導体レーザをみてきましたが、最後に長波長域用の半導体レーザを取り上げます。長波長すなわち赤外域のレーザとしては33項のInP系(InGaAsP系)素子がありますが、これは波長1μm台までのものでした。ガスレーザには例えば波長10.6μmのCO2レーザなどがありますが、半導体レーザでは数μm以上の赤外光を出すものがありませんでした。バンドギャップエネルギーの点からいうと、InAsとかGaSbなどⅢ-Ⅴ族のなかにも候補材料はあるのですが、基板材料や格子整合の問題などから実用的な発光材料として使われるに至っていません。
ところがまったく発光原理の違う半導体レーザが登場し、赤外域全域でレーザ光を得ることが可能になりました。これが量子カスケードレーザと呼ばれる半導体レーザです。 これまで取り上げてきた半導体レーザはすべて伝導帯に注入された電子が価電子帯の正孔と結合する際に発光する光を利用しています。ところが量子カスケードレーザではこれを利用しません。量子井戸レーザのところ(31項)で、量子井戸にはサブバンドという特有の準位が複数作られると説明しましたが、量子カスケードレーザはこの複数のサブバンド間の電子の遷移を利用します。図37-1に示すように伝導帯の量子井戸内に形成された2つのサブバンドのエネルギーの大きい方へ電子を注入し、この電子がエネルギーの小さい方のサブバンドへ落ちるときに光を放射します。サブバンド間のエネルギー差は通常非常に小さいので、赤外域の発光が期待できます。このこと自体は1971年にソ連(当時)の研究者が提案しているそうです。実際にレーザの発振に成功したのはそれから20年以上経った1994年のことで、ベル研究所によってなされました(1)(2)。AlGaInAs系を用いて波長約4μmのレーザ発振を得ています。
ここで問題になるのが量子準位へどのように電子を注入するかです。普通に電極から障壁層を越えて電子を量子井戸層に入れると、電子は量子準位には留まれず、価電子帯の正孔と再結合してしまいます。これは従来の半導体レーザの発光に相当します。考えられた方法はトンネル効果を使って電子を薄い障壁層を透過させて低いエネルギーのまま量子準位へ注入する方法です。
都合の良いことに量子井戸内の量子準位は井戸の幅を変えて調節ができることです。そこで図37-2に示すように一定の電圧をかけたときに電極から発光層の量子準位に至る間のサブバンドのエネルギーを一定になるようにし、かつそのエネルギーが発光層の量子準位のエネルギーに一致するように調節しておけば電子はこの量子準位を伝わって発光層の量子準位に入れることができます。
この量子準位の電子は下位の量子準位に遷移し2つの量子準位のエネルギー差に相当する波長の光を放出します。 このとき下位の準位に電子が貯まってしまうとレーザ発振は持続できません。放置しておくと下位の準位の電子は価電子帯へ遷移したり、非発光で消滅したりしますが、この過程がゆっくりであると下位の準位に電子が貯まることになります。
これを防ぐために下位の準位から再びトンネル効果を使って電子を抜き取ることが考えられました。図37-2に示すように下位の準位に合わせるようにつぎの量子井戸の準位を作ります。この電子の流れの先にもう一つ発光層を設ければ、もう一度発光に寄与できます。これは何度でも繰り返すことができることは容易にわかると思います。
この何度も繰り返し発光層を設けて発光させることを「カスケード(cascade)」という語で表しています。カスケードとは英語で「滝」という意味ですが、電子の動きを何段にもなった滝から水が流れ落ちる様子に見立てたものと思います。なかなか良い命名と思いますが、ここから量子準位間の遷移を利用しているという原理は読み取れません。
素子の設計・製造方法を図37-3をみながら説明します。利用するサブバンド間のエネルギー差を-eVsとします。発光層が積層方向に周期dで存在するようにするとします。図では周期dのなかに3つの井戸層が設けられていますが、これは図を簡単にするためのもので、実際にはもっと多数の井戸層を用います。各井戸層のサブバンドを-E=-Vs/dに一致するような傾斜になるように各井戸層の幅を決定します(式は省略します)。このように作製した素子は図37-1のように内部電界がEになるようにバイアス電圧をかけると、各サブバンドが一定のエネルギーになり、電子が障壁層をトンネルできるようになります。障壁層の厚みは基本的には全層一定とします。
量子準位間のエネルギー差は一般に小さいものですから、発光波長は赤外域が中心となります。上記のように量子準位間のエネルギー差は量子井戸幅で調整ができるので、材料を選ばなくてもある程度任意の波長のレーザ光を得ることができます。とくにエネルギーを小さくすることは容易ですから長い波長の赤外光は全域に渡って発光が可能です。
さらにテラヘルツ波の発振も可能であることが実証されています(3)。1THzは1000GHzのことで波長にすると300μmに相当します。電磁波のうちいわゆる電波に当たるものでもっとも波長が短いのはサブミリ波(波長1mm以下)でおおよそこの辺りに相当する電波と遠赤外光との境目辺りがテラヘルツ波と呼ばれています。エネルギー差にして0.01eV以下となりますが、量子準位としては実現可能です。
赤外光の利用としては大出力CO2レーザを代替するのは無理かもしれませんが、分光分析用光源としては非常に有用です。すでに量子カスケードレーザは実用化されており、広く応用されようとしています。
(1)J.Faist, et al, Science, Vol.264 (1994) p.553
(2)特開平08-279647号(対応アメリカ特許US5457709号)
(3)特開2013-171842号
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