光デバイス/半導体レーザ

19.半導体レーザの室温連続発振

 半導体レーザは最初、77Kという低温でしかもパルス電流でしか動作しませんでした。レーザ発振のためにあまりにも大きな電流を流さなければならず、少しでも長い時間電流を流し続けると、接合が過熱して融けてしまったためです。冷却せずに室温で長い時間動作させ続けるためには無駄な電流をできるだけなくして過熱を避けることが必要でした。

 1962年の最初の動作確認の後、多くの研究機関で室温で連続的に動作をさせるための研究が行われました。しかし簡単に問題は解決せず、室温連続動作が達成されたのは8年後の1970年でした。最初の動作と同じように、複数の研究機関が同じ年に成功を報告しましたが、そのなかで最も早かったのはアメリカのベル研究所の林厳雄氏らでした。林氏は勿論日本人ですが、当時ベル研究所に所属されていました。このほか、アメリカではRCA社が成功を報告しています。

 またソ連(当時)のJoffe研究所からもAlferovという人が成功を報告する論文を出しています。当時は東西冷戦の時代でソ連はアメリカと先端技術開発で競っていましたので、半導体レーザにも力を注いでいたのです。

 さて、林氏の日本に出願された室温連続発振の成功に関する特許は少なくとも3件あります(1)-(3)。出願人はベル研究所ではなく、ウェスタンエレクトリック社となっています。ウェスタンエレクトリック社はベル研究所の母体であるアメリカの電話会社AT&Tの傘下で通信機器を製造していた会社で(現在はこの社名の会社はないはずです)、ベル研究所の親会社でした。このためベル研究所の成果をこの会社名義で特許出願しているケースがよくあります。このAT&T関係の組織の変遷は非常に複雑で、社名もよく変わっています。

 さてこの3件は当然ですが、いずれも最初にアメリカで出願されています。アメリカでの出願日(いわゆる優先日)は(1)(2)が1970年で、(3)は翌1971年です。論文発表は複数の人の連名になっていますが、特許の発明者はいずれも林氏単独になっています。

 細かいことですが、これらの特許はアメリカ出願が基礎になっていますから、英語から日本語への翻訳です。このため発明者が日本人であっても氏名はカタカナで表記されています。このため漢字の発明者氏名で検索しても出てこないということになります。こんなことまで注意するのは難しいですが、出てくるはずの特許が見つからないときなどにはそんな場合もあるということです。

 まずは少し特許の内容を見てみましょう。いずれも丁寧に書かれていますので、初期の半導体レーザを理解するにはよい文献です。なお、明細書では「レーザーダイオード」という言葉が使われていますが、意味は半導体レーザと同じです。「レーザダイオード」略して「LD」は現在でもLEDと対比して使う場合がありますが、日本では標準的には「半導体レーザ」を使うことになっています。

 技術的にはたくさん取り上げるべきことがありますが、それはおいおい説明することにして、まずは大きなポイントを説明しておきます。室温連続動作が成功したのは何と言ってもダブルヘテロ(二重ヘテロ)構造を採用したことです。これによってキャリアは活性層に閉じ込められ、光も活性層を中心とした領域に閉じ込められるため、誘導放出に寄与しないキャリアが大幅に減ってしきい電流密度が下がるのです。

 最初に動作したGE社、Hallらの素子はGaAsのホモ接合でした。単にGaAs結晶に不純物拡散を行ってpn接合を形成した素子です。ここからダブルヘテロまではかなり距離があります。またダブルヘテロ構造を形成するには基板の上に違う種類の半導体の結晶を成長させる必要があり、エピタキシャル成長技術の開発も必要です。これだけ見ても初期の素子と室温連続発振した素子とでは技術的に大きな違いがあります。このギャップを埋めるのに10年近い歳月が必要だったと言えるでしょう。

 図19-1(2)の特許に載っている実装した半導体レーザを示した図です。室温で動作させるためには熱伝導性のよいダイアモンド35に錫メッキ41を施し。その上にチップを貼り付け、それをさらに金属製の放熱板37の上に載せるようにして熱を逃がすように工夫しています。

 ダブルヘテロ接合を半導体レーザに適用して成功したわけですが、発明者がダブルヘテロ構造を初めて考えたとは書かれていません。これ以前にそのような考え方がすでにあったように思われます。そのような進歩は1962年と1970年の間にあったはずで、その辺りを時代を少し戻ってこれから調べてみたいと思います。

(1)特開昭46-6064号(対応アメリカ特許:US3758875及びUS3801928)

(2)特開昭47-13469号

(3)特開昭48-22292号

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