科学・基礎/量子化学

6,分子軌道法(変分法)

 分子軌道関数とそれに対応するエネルギー \(E\) を実際に求める方法を取り上げます。その根本的な考え方はつぎの通りです。

 まずエネルギー \(E\) の表式をもう一度掲げます。 \[E=\frac{a^{2}H_{aa}+2abH_{ab}+b^{2}H_{bb}}{a^{2}S_{aa}+2abS_{ab}+b^{2}S_{bb}}\tag{1}\] ただし表記を簡単にするために \[\int\psi_{m}H\psi_{n}\mathrm{d}\tau=H_{mn}\] \[\int\psi_{m}\psi_{n}\mathrm{d}\tau=S_{mn}\] という置き換えを行っています。

 前項でも説明したように各原子軌道関数の重み係数である \(a\)、\(b\) を求めれば分子軌道関数が求まるわけですから、これを求める方法が必要です。物理的には \(a\)、\(b\) は分子軌道関数に対応するエネルギー \(E\) が最小になるように決まるはずです。エネルギーがもっとも小さいときに系が安定になるからです。この考え方を変分原理と言います。

 この考え方に立つと、\(E\) の \(a\)、\(b\) による偏微分が 0 になるように \(a\) と \(b\) を決定すればよいことになります。これが変分法です。 \[\frac{\partial E}{\partial a}=0\] \[\frac{\partial E}{\partial b}=0\]

(1)式より \(E\) は \(a\) あるいは \(b\) についての分数関数ですから、その微分は公式 \[\frac{\partial}{\partial x}\left \{ \frac{f\left ( x \right )}{g\left ( x \right )}\right \}=\frac{f'\left ( x \right )g\left ( x \right )-f\left ( x \right )g'\left ( x \right )}{\left \{ g\left ( x \right ) \right \}^{2}}\] によって計算できます。途中の計算は省きますが、結果はつぎのようになります。

\[\frac{\partial E}{\partial a}=\frac{2a\left ( H_{aa}-ES_{aa}\right ) +2b \left ( H_{ab}-ES_{ab} \right )}{a^{2}S_{aa}+2abS_{ab}+b^{2}S_{bb}}=0\] \[\frac{\partial E}{\partial b}=\frac{2a\left ( H_{ab}-ES_{ab}\right ) +2b \left ( H_{bb}-ES_{bb} \right )}{a^{2}S_{aa}+2abS_{ab}+b^{2}S_{bb}}=0\] ここで右辺に \(E\) が入っていますが、これは(1)式と同じ形の式が現れるように変形し、その部分を \(E\) を使って表記したことによります。上式が成り立つのは分子=0 の場合ですから \[a\left ( H_{aa}-ES_{aa}\right )+b\left (H_{ab}-ES_{ab}\right )=0\] \[a\left ( H_{ab}-ES_{ab}\right )+b\left (H_{bb}-ES_{bb}\right )=0\]

 この式の一つの解は \(a=b=0\) ですが、これは意味がないので、これ以外の解を探します。係数を行列式形式で書くと \[\begin{vmatrix}H_{aa}-ES_{aa} &H_{ab}-ES_{ab} \\ H_{ab}-ES_{ab} &H_{bb}-ES_{bb}\end{vmatrix}=0\]

 ここで \(S_{ab}\) は小さいと仮定し無視します。さらに \(H_{aa}\) と \(H_{bb}\) は水素原子で言えば同じ 1s 軌道に関するもので等しいと言えます。そこで \[H_{aa}=H_{bb}=\alpha\] \[H_{ab}=\beta\] と置きます。上記行列式はつぎのように簡単になります。 \[\begin{vmatrix}\alpha -E &\beta \\ \beta &\alpha -E \end{vmatrix}=0\]

 この行列式は次式と等価です。 \[\left ( \alpha -E \right )^{2}-\beta^{2}=0\] これより \(E\) の解はつぎの2つになります。 \[E=\alpha +\beta\] \[E=\alpha -\beta\]

 上記係数行列式をもう一度元の方程式に戻します。 \[a\left ( \alpha -E \right ) +b\beta =0\] \[a\beta +b\left ( \alpha -E \right ) =0\]

 上式に \(E=\alpha +\beta \) を代入すると \[-a\beta +b\beta =0\] ですから \[a=b \] です。したがって \[\psi =a\left ( \psi_{a}+\psi_{b} \right ) \]となります。\(\psi\) についても規格化されている必要がありますから \[\begin{align}\int\psi^{2}\mathrm{d}\tau &= a^{2}\int\left ( \psi_{a}+\psi_{b}\right )^{2}\mathrm{d}\tau \\ &= a^{2}\left \{ \int\psi_{a}^{2}\mathrm{d}\tau+2\int\psi_{a}\psi_{b}\mathrm{d}\tau +\int\psi_{b}^{2}\mathrm{d}\tau \right \} \\ &=1\end{align}\]

  前項ですでに記したように個々の \(\psi_a \)、\(\psi_b \) についても規格化されているので、 \[\int\psi_{a}^{2}\mathrm{d}\tau=\int\psi_{b}^{2}\] でありまた \[\int\psi_{a}\psi_{b}\mathrm{d}\tau=0\] と近似してしまえば、 \[2a^{2}=1\] となり \[a=b=\frac{1}{\sqrt{2}}\] となります。したがって \[\psi=\frac{1}{\sqrt{2}}\left ( \psi_{a}+\psi_{b}\right )\] となります。

 エネルギーは上記のように2つあるのでそれを \(E_1 \)、\(E_2 \) と書くと、それぞれに対応して分子軌道関数 \(\psi_1 \)、\(\psi_2 \) が以下のように求められます。 \[E_{1}=\alpha-\beta\] に対しての分子軌道関数 \(\psi_1 \) は \[\psi_{1}=\frac{1}{\sqrt{2}}\left ( \psi_{a}-\psi_{b} \right )\] となります。また \[E_{2}=\alpha+\beta\] に対しての分子軌道関数 \(\psi_2 \) は \[\psi_{2}=\frac{1}{\sqrt{2}}\left ( \psi_{a}+\psi_{b}\right )\] となります。

 図6-1は以上の2つの分子軌道のエネルギー \(E_1 \) と \(E_2 \) を線図で示したものです。後でもう一度触れますが、\(E_1 \) は \(E_2 \) よりエネルギーが低く、こちらの分子軌道に安定して電子が存在できることを示しています。

 ここまで分子軌道法の基本的な考え方を水素原子2個が結合した水素分子をモデルにして説明してきました。この考え方は原子数、電子数のもっと多い分子にも適用できそうに思われます。なぜなら電子を \(n\) 個もつ分子の分子軌道関数を \[\psi=c_{1}\psi_{1}+c_{2}\psi_{2}+\cdots +c_{n}\psi_{n}\] と表すのが分子軌道法の基本的考え方だからです。ここで \(1 \sim n\) の数字はその分子がもつ \(n\) 個の分子軌道のそれぞれを表します。係数 \(C_1 \sim C_n \) は \(1 \sim n\) 番目の分子軌道につく重み係数で、これが決定する対象となります。

 計算の手順は上と同じで、エネルギーは次式で表されますから \[E=\frac{\int\psi^{*}H\psi\mathrm{d}\tau}{\int\psi\psi^{*}\mathrm{d}\tau}\] 各係数で偏微分すれば前項同様の行列式が得られます。ただし係数の数が多いと行列式の要素の数が多くなりますので、これを解くのは前項のように簡単にはいかなくなりますが、コンピュータを用いた数値計算によれば、解を求めることができます。分子軌道法の考え方は早くから提案されていましたが、実際の分子に広く適用されるようになるにはコンピュータの発展を待つ必要があったのはこのためです。

 ここでこれ以上具体的な話を進めるには分子軌道計算を行えるソフトウェアが必要です。これを自由に使えるのは専門の研究機関に限られるのですが、一般の人でも実際の有機分子の分子軌道計算を体験する方法があります。それは平山令明著「実践量子化学入門―分子軌道法で化学反応が見える」という書籍です。講談社のブルーバックスの一冊です。この本にはCD-ROMが付属していて、この中に"WinMOPAC"という分子軌道法計算ソフトと30種類以上の分子のデータが収録されています。もちろん機能が制限されていますから、研究用に使えるわけではありませんが、分子軌道計算を体験することは十分できます。

 この本は2002年初版のため、プログラムはWindows XP用に作られています。その後のWindowsで動作するか、あるいは改版が出ているかについては未確認です。

 ところで本書には「分子軌道法で化学反応が見える」という副題がついています。分子軌道法の使用目的の多くはこのように化学反応の起こり方を調べることにあります。このため多くの量子化学の本は化学反応を中心に書かれています。しかしここで分子軌道法に立ち入っているのは有機分子の発光メカニズムを調べるためです。本書は発光については触れていませんが、第6章が「分子の色を知る」となっていて分子の光吸収について論じていますので、この章が参考になります。

 この章で例に取り上げられているのはエチレン分子です。有機発光ダイオードに使われる分子とは遠いですが、まずはエチレンについて考えてみることにします。